海外のいろいろなお話…代表者の経験から

 

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スウェーデンへの出張、レンタカーを借りて

 2015年12月にスウェーデンの田舎にある石材加工機械を購入いただいたお客さん(石材加工店)の機械のオーバーホールに行ってきました。南部の町イエテボリからさらにノルウェー方向に車で3時間ほど人口数千人の小さな町です。午後16時ごろにイエテボリ空港に到着、前もって予約してあった空港前のレンタカー業者に向かいレンタカーを借りました。せっかくだから日本車はやめてドイツ車を借りてさあ出発。私も一緒のエンジニアもドイツ車を持ったことはなくまた借りたSUVがマニュアル仕様でなかなかギアが入りません。暗闇の中を本当に何もない道路を進みました。すれ違う車もまれでこれが一人での運転だったら不安で仕方がなかったです。イエテボリの街中で何回か迷ったあと数時間後にやっと目的地の町へ到着。すでに20時になっていました。その町の唯一のホテルに着くと鍵がかけられていて(前回もそうでしたが)入れなくホテルの責任者を電話で呼び出す羽目に。何とか部屋に入り食事にでもと思ったら町のレストランはすでに閉まっているとのこと。その責人者が親切にも我々にサンドイッチとビールをサービスしてくれました。2日間かけてお客さんの機械を修理しさてまたレンタカーで数時間かけてイエテボリまで向かいました。途中でガソリンを入れようと思い車内にある給油口を開けるレバー(?)を探したが見当たらない。2人で10分ほど悪戦苦闘し探しましたが見つからない。結局あきらめてレンタカー店にそのまま返しました。そこで確認したところそのSUV(VW)は、給油口のリッド(ふた)をぐっと押すと開くようになってました。情けなかったです。

 


 

シンガポールでの商談会 商品サンプル届かず

2014年2月

 

IMG_0426.jpg今回の商談会はマリーナベイサンズで行われた。政府系機関の主催で民間の業者が
請け負ってバイヤーを東南アジア全域から招待したようです。当社も2日間で10数社との商談ができ各社との時間が短かったのですがいろいろと商談をすることができました。一つつまずいたのは、日本の輸送委託業者を通じて送ったいくつかの商品サンプルが商談会場に届かなかったということです。書類の不備もあって、通関を切れなかったということです。其の輸送業者に現地で会ったのですが、ことの重要性を分かっていないようで、仕方ないですねという感じでしか対応してもらえませんでした。この業者は2度と使うことはありません。

 

 



 

バンコク、タイ、デモ騒ぎの中の商談会

2014年1月

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反タクシン派のデモの中、バンコク市内の大通りが封鎖されていて私の宿泊するホテルがそのど真ん中に位置していました。外出するには必ずデモ隊の占拠している通りを横切る必要があり、少々緊張しました。
ただ、デモ隊の中に入るとコンサートをやっていたり、屋台が出ていろいろな物を売っていてどちらかというとデモというよりお祭りといった印象でした。しかし爆弾騒ぎが起きているため油断ができずできるだけ短時間で人込みから抜けるようにしました。一番困ったのは、タクシーがホテルまで行きたがらないことで乗車拒否に何回も会いなかなかつかまらなかったことです。選挙を行わせないというデモ隊(赤シャツ)の主張は民主主義国の日本から言わせると何にかおかしいように思います。 

 


 

クアラルンプール(KL)、マレーシア食品展示会

2013年9月

当社はKLでの緑茶販促のため展示会(FHM2013)に出品しました。ジェトロ主催する日本パビリオンの中に一小間確保し主に緑茶パウダー(抹茶など)を展示しました。来場者は多くやはり日本食というブランドへの関心の高さを感じました。

 


 

 

ウィーン、オーストリア、B to Bオンリーの展示会

2013年6月

先日当社のお客さんが出展した展示会に営業として参加させていただいたのですが、この展示会が他とは違うと思ったことをいくつかあげてみます。まず、ウイーンで行われたのに来場者が全て国外からだったこと。これは驚きでした。通常大半の来場者が開催国から来場するのに今回は皆無。周辺国からの来場が多くそれがまた購入を希望しているお客さんばかりでした。もうひとつは、この業界(名前は挙げられませんが)が日本のメーカーが席巻していること。昨今、いろんな業界で中国や韓国、その他のアジアの国が台頭してきているのにこの業界に関してはまだまだ日本が強いということ。非常に興味のある展示会でした。


マニラ、フィリピン、ウナギを探して

 
2011年11月~2012年6月
Carriedo-1.jpg当社のパートナーと一緒に目的は日本に輸入できる活饅や稚魚を探す目的で8ヶ月間で4回フィリピンを訪問した。主にマニラだったが、ルソン島の北の端にあるアパリやセブにも数回行き現地の天然モノがどんな種類が採れるか確認した。世界には19種類のウナギが確認されているが、フィリピンでも数種類が採れることが分かった。 問題は日本で食されているジャポニカ種がいるかどうかということだ。結論から先に言うと”いませんでした”ということになる。ただ味的に食べられるものは何種類か見つかった。すべて天然ものなのでどうやって定期的に数量を確保できるかが課題になる。昨年の4月になってフィリピンからのウナギの稚魚の輸出が禁止になった。これ自体日本にとって、フィリピンではジャポニカ以外の品種しか取れないためあまり問題ではないが、中国や韓国、台湾にとっては少々頭の痛い問題ではないか。

その4回の出張でいろいろな人に会ったが、中でもPEZA(Philippines Economic Zone Authority=フィリピン経済区庁)の長官にすんなり数回も会えたのには驚いた。大変な親日家で日本にもよく来ているようだ。実際に2012年末ごろにも東京でお会いすることができた。


 

ロンドン、HyperJapan

2011年7月

IMG_0251 for Blog De HP.jpgHyperJapanという日本のポップカルチャーを紹介するイベントがロンドン、オリンピア展示会場でありました。そこではマンガやオタク向けの雑誌、ゲーム、コスプレショーなど国内より活気があるのではないかと思うほど盛況でした。日本食も緑茶、寿司、どら焼きなどなど、国内よりもだいぶ高い値段でも飛ぶように売れてました。一番驚いたのは、その会場への入場制限していることでした。会場事態がさほど大きくないこともあるのですが、それにしても外には、最大で1kmくらいの行列が出来てました。後で聞いたら来場者からクレームが出たようです。多分来年はもっと大きい会場で行われるのでは。   

 

 

 

 

 

シンガポールのラーメン屋

2011年3月
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当社ではシンガポールへお茶を輸出しているのですが、その関連で東北の震災直後に同国に出張した際にあるラーメン屋に入りました。今では珍しくないのですが、日本食店、特にラーメン屋はいたるところにあります。打ち合わせの後、地下鉄でホテルに帰る途中、地下鉄ClarkQuay駅ビル内のラーメン屋で遅い昼食をとろうと思い入りり口まで行くと暇そうな若い女性の店員が2人話してます。メニューが入り口にあったのでじっくり見ると”55歳以上はシニア料金でOK”となっています。まだ私はそこまで言っていないのですが、ダメもとで、まだ少々若いけどシニア料金で大丈夫?、と聞くとそこの店員の子が即答で大丈夫!と言ってくれました。ほんの20%ほどの割引ですが何か得した気分で食事を済ませて外に出ました。そこで見たものがこれです。”Friends of Japan”というキャプションでシンガポールのレストランで5ドルでカードを購入すると加入しているレストランの登録メンバーとしていろいろなメリットがあるということです。この売り上げは赤十字を通して日本の震災の復興に寄付されるということです。2度いい気分になりました。  

 


 


ロンドンとジャカルタのタクシーで

2009年11月

先日(H21年11月初め)にロンドンに出張する機会がありました。主に展示会と商品デモです。そのその出張を終了後、成田経由でジャカルタに出張しました。

ロンドン、ヒースロー空港に夜到着後、ヒースローエクスプレスという電車でパディントン駅に着きます。そこからタクシーに乗り換えてホテルに行きます。約15分ほどの距離です。ご存知かもしれませんが、あの黒い車体の丸っこいクラシックタイプのタクシーです。運転手は30代男性で客当りのいい人でした。乗車しタクシーを走らせてから3,4分たった後、対向車線から来る同業のタクシーの運転手が手で何か合図してます。こちらの運転手が何か気づきました。メーターを挙げてなかったのです。すぐに挙げましたが、すでに走った分はいくらか分からないままです。ホテルに到着後、メーターが7ポンド(¥1,100)ほどになってました。”私がいくらですか”と聞くとメーター通り7ポンドとのこと。”メーターを挙げずに走った分があるだろう”と聞くと”それは自分の責任だからいらない”と運転手。私から”実際はいくらくらいなんだ”と聞くと、9ポンド(¥1,400)ほどとのこと。9ポンド余りを払い領収書をもらいました。
翻って次のジャカルタ。
ジャカルタ空港に夜到着。空港からブルーバード(インドネシアでは信頼できるタクシー会社の一つ)でホテルへ。ホテルまでは通常40分ほどです。ジャカルタのスディルマン通りにあるホテルの近くに来たと思ったらなぜかホテルの前を素通り。運転手(40代男性)に”おいおい違うよXXXXホテルはすぎたぞ”と言うと、”あ、間違えた”とのこと。よくあることなので(ジャカルタではよく研修を受けていない運転手が多い)戻るように言うと”分かった”と言ってメーターを倒しました。“お、なかなかできた運転手だな”と思い、95,000ルピア(¥800)ほどだったのでそれを払えばいいと考えました。それから5分ほど、裏道を通ってやっとホテルへ。
運転手に”いくらだ”と私が聞きました。(もちろん95,000ルピアと言われることを期待して)運転手の返事は”130,000ルピア”。”ちょっと待て、なんで増えるんだ。お前さっき間違ったと言ってメーターを倒したじゃないか。お前が悪いんだろ。”むこうも理由にもならないことを言って譲らず、車内で何分か口論しました。最後には、105,000ルピアで落ち着きました。インドネシアではよくあることですがなんとも後味が悪かったです。
先進国と発展途上国では、こういったところでモラルの違いが出てくるのでしょうか。

 
モスクワでの出来事

2009年10月

本年(H21年)10月に緑茶の市場調査のため展示会視察を含めてモスクワに出張しました。
ロシアへは実質的に最初の出張だったのでいろいろとモスクワ市内の安全性や物価など下調べをして行きました。まずは、ヘルシンキ経由で夜9時頃チェルメチボ空港着。
通関後、成田でできなかった為替の交換をしようと思い両替所へ。
両替所では、無愛想な若い女性が、円からルーブルに交換したいと申し出ると無言で交換してくれました。彼女の後ろの壁に5万円以上(?)の両替したらマトリョーシカを1個もらえるとの日本語のポスターが貼ってあったのが印象的でした。
モスクワには2日間しか居ないので1万円ほど換えておいてあとは街中でと考えていたのですがそれが間違いでした。(ちなみにレートは1RB=ル-ブル、3.72円)モスクワ市内の銀行ではドルかユーロからしかルーブルに両替ができないのです。
その時は、分からなかったのでそのままタクシーをつかまえるためにタクシースタンドへ。
ホテルまでは30分ほどというので、500RBほどかなと高をくくっていたらなんと2,000RBとのこと。非常に高い。仕方がないのでそれを支払って(前払い)ホテルへ行きました。
ちなみに現金が即無くなったので、その後はクレジットカードで現金化しました。
翌日から早速活動するためホテルで近くのショッピングモールに行ったり、展示場で競合他社や顧客になるような小間を回って話したりしました。
これらへの主な移動は、地下鉄を使いましたが、地下鉄は片道22RBなので安いです。
モスクワでの印象ですが、やはり私服の警備員が多いことと交通渋滞でしょうか。後それと展示場での印象でしたが、何か人が並んでいると何か分からなくてもとりあえず並んで見る人が多いこと。
(展示場ではよく無料で試食させてくれるので)
ホテルは、5つ星に泊まったのですが、各階に私服の警備員がいて監視していないようでしている。多分軍の出身が多いと思うのですが、眼光が鋭い。
またスーパーで買い物をする時にレジバッグがほしいと支払った後で言うと、レジのおばさんが分からなかったらしく何回か説明しているとスッと後ろから警備員が近付いてきて私の後ろに立ちました。レジ袋代金2RBを払ったので何も起こらずに済んだのですが、そのスーパーにも少なくとも5人の私服の警備員がいました。
どうも未だにソビエトの慣習(?)が残っているのか、何か監視されているような感じなのです。
人をとにかく信用していないというのでしょうか、ホテルの部屋の冷蔵庫も鍵がかかっていて自分で買ったミネラルウォーターを冷やしたいと言うとホテルの人間が来て冷蔵庫の中身すべてを持って行った後に入れろという。
交通渋滞ですが、鳩山首相の息子さんがその研究でモスクワにいるということが分かるような気がします。何でこんなバカでかい国なのにこんなに渋滞するのか、不思議でたまらないです。
モスクワでのもう一つの印象として、人々が暗い表情をしていることです。地下鉄に乗っていると東京の地下鉄ような静かさでなく、何か暗い印象のある静かさなんです。活気が無い。

 
アメリカのガソリン代一考
2008年2月
2月にカナダとアメリカに出張しました。
私はどこの国に行ってもガソリン代を見てその国の物価を判断しているのですが今回カナダ、アメリカの主要都市を数箇所回ったところガソリン価格の変動(上昇)には驚きました。
ニューヨーク市内ではレギュラーがガロン(3.8L)で約3ドル50セント、サンフランシスコでは3ドル70セントほどでアンレディッド〈ハイオク〉になると近々ガロン4ドルのなるとテレビでも言ってました。と言うことはレギュラーでリッター¥100円近くになり今回の日本の政府法案が通らずガソリンが安くなるとアメリカと日本のガソリン代の違いがリッターで¥20余りしか違わなくなることとなります。これは私にとっては驚きの事実です。
私は70年代後半から80年代にかけてアメリカに住んでおりましたが、そのころ例えばジョージア州の田舎では、レギュラーがガロン45セントでした。
つまりアメリカでは約四半世紀で8倍近くガソリンの価格が上昇したことになります。
では日本ではどうだったか?
現在リッター¥150ほどですが四半世紀前はいくらだったか?
もしアメリカのように8倍近くに現在なってしまったとしたらそのころはリッター¥20くらいでないといけない。日本のガソリンの価格がそのころいくらか記憶にありませんが、¥20ではなかったと思います。ここで申し上げたいのは、アメリカの物価の上昇がここ数年激しいということです。
ホテルで朝食をまともに食べると今は10ドルではすみません。
マクドナルドやバーガーキングなどでも朝食のセットを食べても日本のそれよりも高く感じます。
〈現在は為替が円高に振れているので、少し割安感がありますが)
 


アトランタでのレンタカーレンタル
2007年10月
今月(H19年10月)お客様との同行出張で米国のアトランタ(ジョージア州)に数日滞在しました。この街は私が1976年から1978年までの2年間学生時代をすごした街でもあります。さて今回はお客様と同行しいているので学生時代の雰囲気に浸っているわけにはいきません。朝早くアトランタの空港に到着し早速レンタカーを借りる手続きをする為に空港内の地下鉄に乗ってバッゲージクレームに向かいます。
ちなみに今まで私は海外のほとんどの主な空港を見てきましたがアトランタ(Hartsfield)空港は大きさではシカゴ(O’Hare)空港などよりも大きく世界一ではないかと思います。何せ本物の地下鉄が空港内に走っていますから。お客様とスーツケースを抱えて予約したレンタカーを借りるべくそのレンタカー会社のカウンターへ。通常アメリカでは、出迎えが無い場合、出張先では公共の足を期待できないので必然的にレンタカーとなります。アトランタではレンタカーロットが空港から少々離れているのでバスでそこに向かいます。そのバスを捕まえる為に言われたように空港を出て右側に行こうとしたら左側から借りる予定のレンタカー会社のバスが。
エイ、捕まえてしまえと大声を上げて止まるように言って止まってもらいました。我々が乗った後、運転手のおばさんがここはレンタカーを返した人を降ろすところであって乗るところではないので次回からは気をつけるようにと文句を言われました。私は次回はだいぶ先なので、はいはいとこたえておきレンタカーロットへ。しかしどうもこのレンタカーロットが小さい。通常何社もの会社(Avis,Herts,Dollarなど)が同じロットにあるのにここには我々が借りる一社しかない。そのときに聞いておけばよかったのですが、アポがあり先を急いでいるので、とにかくアポの場所に急ぐことにしました。無事その日のアポ先の方との打合せも終わり、翌日も順調にスケジュールをこなし翌々日の朝帰国する為にレンタカーを走らせてアトランタ空港へ。空港の案内板のとおりにレンタカーリターンの場所へ向かいました。しかし、無い。レンタカーリターンのところに借りた会社のレンタカーロットが無い。そこにいた人に聞くと私が借りた会社は仮のところで営業をしているとのこと。
どうしよう。お客様も不安になったようで、あちこち探しまわりました。
私は自慢ではないが方向音痴です。実家への道も良く間違えます。
分からない。そこで助けてくれたのが、同行させていただいたお客様です。レンタカーを借りるときに一回来ただけなのに感覚的に場所を覚えていたようです。私にとってはすごいことです。
後で聞いてみると全体的に木の場所とか、道路の位置などでここではないかと分かったようです。何か方向音痴を直す良い方法は無いでしょうか?

 
バンコクの空港で
2007年10月
H19年6月始めに所用でタイのバンコクに出張しました。数日滞在し夜中の便で名古屋空港に向かう為、少し早めにチェックイン,イミグレを通過しゲートに向かいました。はて、ゲートに入る前にセキュリティの最終チェックで何か人だかりが。それもおばさんの団体十数人が何か大きな声で話している。いや、叫んでいる。何事かと思って自分もセキュリティを通過するときにそっと聞き耳を立ててみるとおばさんたちは韓国語を話していて韓国人の団体ということが分かりました。さて、私のフライトのボーディングまで少々時間があったので、何を叫んでいるか聞いてみようと思い誰かを待つ振りをして近くの椅子に座り込み10分ほど傍観してみました。
韓国人のおばさんの団体は皆さん恰幅のいい40~50代の女性でセキュリティを通過した人が6人、通過できず何かセキュリティともめている人が5人。では何をもめているのでしょうか?
私は韓国語が分からないので見ただけのことしか分かりませんが、どうも免税品店で購入した化粧品をもってセキュリティを通過しようとしたところ止められたようです。
バンコク新空港は6月から機内持ち込み品が厳しくなり液体の持ち込みがだめで空港で購入した免税品も店で特殊な透明のビニールバッグで密封することとなっており私も購入した免税品をそれに入れられました。そこには到着地まで開けないようにと英語と日本語で書いてあります。多分このおばさんたちは、それを開けてしまってバラで化粧品を持っていこうとしたのだと思います。
セキュリティのタイ人の女性が、それらおばさんたちの化粧品を全部ゴミ箱に捨てていまい、それを怒ったおばさんたちがセキュリティともめているのでした。
おばさんたちは、韓国語でセキュリティの女性に詰め寄っていたので最後にはそのセキュリティ女性も何がなんだか分からなくなり、怒りだして通過できないおばさんたちに大声の英語で下がれと叫んでました。セキュリティを通過できたおばさんたちはセキュリティ越しにできないおばさんたちに何か叫んでます。韓国語なのでよく理解できませんでしたが何か”返品”と言っているような気がします。(”返品”は日本語と同じ発音でしょうか?)
私は何かいたたまれなくなり、その場を離れました。
だけど、インチョンへの出発便の時間は過ぎていたのですが、その後おばさんたちはどうなったでしょうか?

 
中国からの詐欺オファー
2006年9月
今年(2006年)には入ってからだと記憶しておりますが、私の会社が運営している海外向けのサイトを見たと言って中国のある投資会社からメールとチャットが入るようになりました。まず最初に弊社が扱っている緑茶を大量に購入したいとメールが入りその後その会社の女性(必ず女性です)からチャットが入ります。まず彼女から弊社の商品をたくさん購入したいので契約を結びたいと連絡があります。その後その女性の上司が契約を結びたいと言っているので是非その投資会社に来てほしいと言います。来てくれたらその際に大量購入の契約を結ぶというのです。
私はまず最初、メールを受け取った後にその会社のサイトを見てHPの存在を確認しました。キャピタルも大きいのですがどうもHPがプロが作ったとは思えない。それにそこに記載されているメールアドレスが全てYahooのフリーのメールアドレスです。もうここですでに怪しいと思ったので、その後チャットが来ても詐欺との認識で対応しました。ただこのまま”あなた詐欺でしょ”と言って終わってしまってもこちらとしては何も得ることは無い。彼女がどう出るか興味があったので言われるままにいろいろとチャットで答えておりました。
それが冒頭での話しになるのですが、こちらが是非あなたの上司に日本に来てもらい契約してほしいと言うと駄目ですと言われます。
これには後日談があり、最初の詐欺の連絡から数週間後にその投資会社で働いていて私に中国へ来て売買契約してほしいと言っていた女性から電話がありました。彼女は会社がいやになってやめたとのことです。彼女に言わせるとこの投資会社はまさに詐欺の会社で弊社のように商品を中国を含む海外に輸出している会社に目をつけ中国に来させて無理やり契約させ商品を騙し取ると言うシナリオでだまし続けているとのことです。中にはそれに引っかかったヨーロッパや東南アジアの会社がありだまされたようです。
私から彼女には、このような会社はたくさんあり、私のようなプロが見れば一目瞭然だと言っておきました。でも引っかかる人もいるのですね。
またつい最近ですが同じ投資会社から同じように連絡があり同じようなシナリオで中国行きをお願いされました。向こうは私が見破っているとは露知らず一生懸命勧めてきます。
最初は、まともに付き合ってチャットをしていたのですが、だんだん馬鹿らしくなって航空券費用や滞在費用を全部持ってくれるなら行ってもいいと言ってしまいました。それから連絡はありませんが、持ってくれるなら一度行ってみてどんな感じで私をだますか経験してもいいかなと思ってます。海外からのうまい話は必ず罠があります。皆様もくれぐれもお気をつけください。

 
シアトル空港ボランティア事件
2006年4月
昨年の3月末に弊社が輸入しているボクシング用品の業者が出品している展示会がラスベガスであり、その展示会の視察と弊社のカナダの業者への訪問もかねて出張してきました。
この事件は日本への帰国時におこったものです。
バンクーバーでカナダの業者と打ち合わせた後シアトル経由で成田へ向かうまで、シアトル空港内で数時間自分のフライトを待っていました。ポディウム(ゲート内にあるカウンター)の航空会社事務員からアナウンスがありフライトがオーバーブッキングとのこと。
アメリカの航空会社では良くあることなのであまり気に留めていなかったのですが、その後のアナウンスでもし一便遅らせることができる人がいたらそのボランティア代金として現金数百ドル、航空会社のクーポンならその現金の倍額をもらえるとのことです。
私は次の日には特にアポなどなかったため即手を上げました。ただ条件としてこの便で座席が通路側に取れたらこの便で行くということにしました。(その時は、真中の座席だったので...長時間のフライトは私は必ず通路側に座らせてもらう事にしています。)
待つこと数十分私の名前が呼ばれ通路側の座席が取れたとのこと。じゃ、ということで便を遅らせるボランティアしないでこの便で行くと航空会社の事務員に言い、多分私の荷物がボランティアするということで飛行機から降ろされていると思うのでまたの乗せてくださいと念を押しました。
事務員は分かったと言いました。
その時いやな予感がしたのですが案の定、十数時間後に成田に着いて回ってくる荷物を最後まで待っていたら結局私の荷物はでてきませんでした。
成田の航空会社職員に次の便に乗せるようにお願いし到着後すぐに私の自宅まで送るように言いました。問題は、荷物の通関です。
荷物が無いため書類での課税になったのですが、空港の課税は課税品につき一律15%ということだそうです。知りませんでした。革製品の税金は高く12%以上とは理解していましたが…
そんなにハンドキャリーした輸入製品の額は大きくはないのですが、少々痛い。
しかたなく支払うということで翌日荷物を受け取り次第払うので航空会社に立て替えておいてほしいと言って了解してもらいました。
ここでの教訓は、混雑している海外の空港ではあまり難しいことを頼まないことだということです。ボランティア代金などに目がくらんだ自分を恥じると共に、関税に関する無知な自分を責めたのでした。

 
ラスベガスのホテル予約できてなかった事件
2005年3月
2006年3月にラスベガスで当社が輸出している緑茶関連商品の展示会がありました。私は張り切って半年も前から準備にかかり一緒に出品するメーカーさんとの連絡、航空券の予約、展示会主催者との連絡など準備を周到にしてきました。そしてホテルの予約も3月に8泊するため1月にはいろいろと調査し以前宿泊したことのあるホテルにまた泊まることとしました。
さて問題はどう予約するかです。
直接ホテルに電話し予約、日本の旅行代理店に電話し予約させる、インターネットで予約といくつかありますが、皆さんご存知のようにインターネットが一番安いレートでホテルを予約できます。
同じホテルでも代理店を通したり直接電話する場合と比べて20%から50%ほど安くなります。
私もインターネットで予約することとしました。宿泊期間が8泊なので大きな違いです。
いろいろとインターネットサイトをブラウズして一番レートのいいサイトから予約しその予約確認もインターネット上でできました。
予約も完了したのでそのまま出張当日まで何も確認せずラスベガスへ。
ラスベガスの空港着後タクシーでホテルへ行きホテルのフロントでチェックイン。とおもったのですが、フロントのフィリピン系の女性が、”すいません、予約入ってません。” 入っていないって、そんなはずはない。
“入れました。これを見てください。”とインターネットで予約した書類やそのサイトの確認メールのコピーをみせてどうだという顔で私が彼女を見ると、彼女はマネージャーに電話。
30分も待たされ私が不安そうな顔をしてロビーに座っていると、彼女が”すいません。このインターネットのサイトの会社とはもう契約していません。”とのつれない返事。
“契約してない。そんなのこちらの知ったことではない。インターネットではお宅のホテルの名前が出ていてちゃんと予約できたんだ。それに早く予約したからもうクレジットカードで予約分費用は引かれている。冗談ではない。”と私。
すったもんだしているうちに確認書類の中にサイトが契約している支払い会社のなかで一社だけこのホテルと契約しているところがありそこからこのホテルが支払いを受けることができるとわかり一件落着。
つまり、私の予約>インターネット予約サイト>サイトが契約している支払い業者>ホテ
ルという支払い構図になっておりホテルがその業者を確認できなかっただけでした。
ただ私が確認書類一式を持っていなかったら予約がされていなかったこととなり、今回の出張の宿泊場所が路上になるところでした。
皆さんもインターネットでホテルを予約する場合はくれぐれもお気をつけください。

 
アトランタ空港盗難事件
2001年5月
私は、ある石材加工関連の顧客2人を伴って5月の連休を使いアトランタの石材業者へ工場見学及び石材の買い付けに行きました。
アトランタの国際空港は、1996年のオリンピックの開催時に完成した新しい空港で空港内に地下鉄が走っています。日本からの便が駐機するターミナルはバッゲージクレームのターミナルまで10分ほどかかります。我々3人は、飛行機を降りて手荷物を持ち地下鉄に乗りパスポートコントロール、バッゲージクレームのターミナルまで向かいました。
あとで考えるとそのときすでに目を付けられていたように思います。
3人がそれぞれパスポートコントロールを無事に終えて階下のバッゲージクレームの指定されたカルーセル(荷物がぐるぐる回ってくるとこと)につきました。
3人まとまって雑談をしていたらいよいよかルーセルが回り始めました。荷物が出て来ると思って私が荷物を床に置いたまま5Mほど先のカルーセルに確認に行きました。
そのあとすぐ他の2人が、私のほうに来て何か話しかけてきました。その時床に3人の手荷物は置いたままです。その10秒ほど後、私は”はっ”と思い荷物に振り返ると顧客の1人の荷物がありません。まずいと思って、即そのあたりを探しましたが後の祭りでした。
パスポート、現金数十万円、クレジットカードなどの貴重品がなくなりました。
私もなぜ手荷物から目を離したか、またなぜ離さないでと他の2人に注意しなかったか後悔しましたが後の祭りです。その後石材業者の事務所でいろいろと対策を考えましたが、パスポートを取られたことはどうしてもまずかったです。
アトランタの日本領事館やワシントンの日本の大使館に電話をしましたが、驚くことに日本の連休中は休みとのこと。(連休中には、海外旅行する人も多いのに何でこんな時に休むんだと憤慨しました)仕方なくその日はホテルに泊まり、翌日業社の事務所で何とかパスポートをすぐ再発行できないものかと領事館、大使館に電話しました。しかし電話番がでるだけで担当者全員休みとのこと。
途方にくれていると業者の事務所に一本の電話がかかってきました。
犯人からでした。 ”パスポートを持っているがどうしたらいい?”
つまり犯人としてはこちらがパスポートだけは返してほしいと分かっているのです。
これはプロの仕事です。とにかく金は払うと犯人に言い300ドルで決着しました。
受け渡しは、石材業者のアトランタの知り合いの店舗での受け渡しとし翌日にはパスポートが返ってきました。
一応事件の起こった空港で警察の事情聴取を受けましたが、聴取をした警官は気の毒そうな顔つきでまず現金他は戻ってこないと言っていました。
この盗難事件の教訓は、海外の公共の場所では絶対に貴重品を目を離さないのでなく、手を放さないこと。よく空港などで手荷物を踏んづけている人がいますが正解です。これなら盗まれません。また日本の大使館などの行政機関はあてにしないこと。
基本的に盗難などでは何もしてくれません。

 
韓国取引企業の倒産事件
1991年4月
およそ20年前に私の所属していた外資系の音響機器メーカーが韓国企業数社と取引していました。そのうちのA社、従業員200人ほどのソウルの郊外に工場がある音響機器メーカーであった事件です。
私の会社がこのA社にあるタイプのオーディオ機器をOEM生産させ北米、ヨーロッパで販売するために数千万円の金型の投資をしました。このA社については私が担当だったためにその後の金型の製作、そしてその金型からのオーディオ機器の量産までコーディネートすることとなりました。
さて問題はこのA社の管理体制です。
まず社長と会いましたがいかにもワンマンで、専務以下をあごで使っているような会社でした。
月一くらいのペースでソウル郊外のA社工場へ通い、社長や担当者と打ち合わせをしました。
金型代を振り込んだ月末、A社の専務から電話があり会社が倒産したとのこと。
噂はあったのですが、まさかこんなに早くとは。社長は逃げて見つからない。
ではどうするか?とにかくA社へ行くしかない。
電話の翌日私と私の上司を含めた数人で成田からソウルへ。そしてA社の工場へと向かいました。
工場に着くとそこで見たものは工場の入り口で工場をロックアウトしている何人もの若い女性の工員でした。
話をしてみると工場内には専務と私の会社のプロジェクト担当者がいるとのこと。
中に入りたいと言っても女性たちは、入れさせてくれない。いろいろと説明しどうしても責任者と話す必要があるというとやっと入れてくれて工場内で専務と会うことができました。
専務は、やはり若い女性たちに囲まれて韓国語で吊るし上げられていました。
何か日本では考えられない光景です。韓国では労働組合が強いと聞いていましたがこんなだとは。私たちは、自社が投資した金型代を返却してほしいといいましたが、専務の話ではとてもそんなことはできないしたとえ金があってもどこにあるのか分からないし引き出す権限も無い。全て社長が持っていってしまったとのこと。
ここでやっと理解できたのですが、どうも倒産は計画的だったようです。
社長は、雲隠れして責任は全部専務におっかぶせ自分は多分会社の金を持って行ってしまったようです。
投資した金型代はもちろん返ってきませんでした。非常に苦い経験でした。
ここでの教訓は、資金を投資する際は、会社の業績だけでなく(実際、A社は業績はそんなに悪くなかったです)投資先の経営者を見抜くこと。”見抜く”とはまずその経営者は正直か、こちらの質問に対しうそをつかないかということです。

 
ジャワ島/バリ島間海底ケーブル秘話
1988年3月
皆さんご存知のようにインドネシアは多くの島からなる国です。一説には2万以上の島があると言われています。インドネシア海軍が最近数えたようですがまだはっきりとした数字は分からないようです。その中で一番我々外国人によく知られているのはバリ島です。
バリ島のヌサドウアやサヌールのリゾート海岸が有名です。
私がインドネシアに駐在中に担当したプロジェクトのひとつにバリ島とジャワ島の間の海底ケーブルの敷設プロジェクトがありました。
私自身ジャカルタから出張でバリ島へ2年の間に20回ほど行きギルマヌークとバニュワギの間をその都度フェリーで横断しました。
バリ島は、日本から若者がたくさん来てリゾートして行きます。
そのリゾート方向とはまったく違って、私の担当したプロジェクトはバリ島でも観光客は誰も行かない西海岸のギルマヌークという町から対岸のジャワ島の最東端のバニュワギという町までへ敷設される海底ケーブルのプロジェクトです。ギルマヌークからバニュワギまでの海峡が約4kmの幅で海流が激しいため運行しているフェリーも海流に流されながら対岸を行き来していました。一時間ほどでしたが潮が速いため蛇行して行かざるを得ない。
ちなみになぜバリ島にジャワ島からわざわざ海底ケーブルを敷くのか?その通りで、わざわざコストのかかる海底ケーブルでなく島に発電設備を置けばいいのです。大きめの発電機をバリ島に設置して発電させればいいのでは?
海底ケーブル敷設にはこんな裏話があったようです。
バリ島はヒンズー教です。インドネシアはイスラム教が国教です。バリ島はインドネシアのなかでも唯一世界に知れたリゾート地です。観光客が外貨を落としていきます。バリ島民は公には何も表明していませんが、宗教の違いもあってインドネシアとは距離をおきたいと思っているようです(少なくとも私にはそう感じました)。つまり独立?そこまでは無いと思いますが…
ここで政治の思惑が入ります。
インドネシア政府としてはバリ島に万が一独立されてはいけない。どうしたらいいか?そうだ、インフラを握ってしまえば?幸い日本のODA資金も使えることだし。
ジャワ島からバリ島へ電力ケーブルを引いて何かことがあったらそれをぶった切ってしまえばバリ島は電気がなくなる。困る。
このケーブルの維持費はどれくらいかかるか分かりませんが、安くはないと思います。
ケーブルの敷設では、径120mm以上のケーブルを船で敷いていくのですがその潮が早いため海底の岩にケーブルが擦られる。潮流のため2回切断され失敗しました。3回目にやっと敷くことができプロジェクトが終了しました。

 
イラクイラン戦争スカッドミサイルの洗礼
1986年10月
私はクウェート駐在の後、1986年から1987年までイラクのバグダッドに駐在しました。
その当時のイラクはイラクイラン戦争の最中でした。
日々、バグダッドの近くの高速道路ではタクシーの屋根にくくり付けられた棺桶がバスラ(南方)方面から運ばれてくるのが見られました。
バグダッドではアメリカのイラク進攻時に報道関係者が泊まっていたホテルに私は滞在していました。この間テレビで自分の泊まっていた部屋のあたりが破壊されてしまっているのを見てこんな風になってしまうんだと思いました。
私の居た当時のバグダッドは、イラクイラン戦争中だったのですがまだ平和で食糧事情が少々悪い以外は夜街中を歩くこともできるくらいでした、月に1,2度のイランからのスカッドミサイル攻撃を除いては...
ミサイルは通常イラン、テヘラン周辺の軍事施設から発射されます。
ミサイルのターゲットは私の滞在していたホテルのチグリス川の対岸にある大統領官邸に向けて発射されますが、これの命中率が悪い。
今北朝鮮が東京に向けてミサイルを発射したら山手線の内側に着弾させるほどの能力はあるといわれていますが、イランのスカッドの性能も大体似たようなものです。
では、問題はどこに落ちるか。
悪いことにスカッドは、成層圏に一度抜けて真上から落ちてきます。つまり落ちてくる際に音がしない。着弾時に”ビシッ”と地響きがして、その後”ドン”と音がしてきのこ雲が上がるだけです。
月2回ほどミサイルが着弾しますが、それが大体大きく外れて住宅街や商業地へ落ちます。
私も何回か近くに着弾した後即現場に行ったことがありました。
早く行かないと軍が現場を閉鎖してしまうからです。
行って見ると、だいたい直径10M位、深さ1~2M位の穴が開いています。
住宅地に落ちると数十人の犠牲が出ると言われます。
一番近くに落ちた時は、私がいた事務所から300Mほど先に落ちたことがありました。
その時は事務所のガラスが割れ自分もとっさに床に伏せたほどでした。幸い窓ガラスの近くに私はいなかったため、怪我はしませんでしたが、爆風とは本当にすごいものなんです。これは言葉では言いにくいです。爆風というより衝撃波です。

 
クウェート密造酒事件
1984年8月
私は、80年代後半にクウェートに駐在していました。石油精製所の建設プロジェクトで日本の建設会社が受注した総工費5000億円ほどのプロジェクトです。
工期は確か6-7年でそのうちの1年半ほど私はプロジェクトのコーディネーターとしてミナアーマディというクウェートシティ(首都)から30分位南の砂漠で現地顧客と日本人派遣員とのコーディネートや営業の仕事をしていました。
ご存知の方も多いと思いますが、クウェートなどイスラム諸国の多くは禁酒国です。アルコールはご法度です。しかし多くの外国からの日本人を含めた労働者のほとんどは、酒がない世界なんか考えられないところから来ています。 
じゃあどうするか? 造るんです。
幸いにも我々日本人が住んでいるキャンプは砂漠のど真中、クウェートの警察も滅多にきません。
私も同僚からドブロクの製造方法を勉強し数ヵ月後にはいっぱしのドブロク製造のスペシャリストになっていました。製造方法は簡単です。果物(他、食べられるものなら何でも良いです)とジュース数十リッター、イースト菌そして圧力釜などの調理器具があればOK。
そんな砂漠のど真ん中で唯一の楽しみである酒を作る毎日を送っていた(もちろん仕事もしていました)ある日の朝、4時ごろキャンプの自分の部屋の外が騒がしい。なんだろうと思って外にでてみるとキャンプ内の私の部屋の前に人だかりが。眠気マナコで近くの人に聞いてみると日本人のマネージャーの一人が自殺を図ったとのこと。
何でもある時、日本人も含めた全体プロジェクト会議が全て英語で進められていたため全くついていけず悲観して手首を切ったらしい。 
さあ大変。何が大変か?
確かに自殺を図った人を病院へ送らなければならない。送った。一命はとりとめるとのこと。そして警察の事情聴取が始まりそう。事情聴取?ヤバイ!
酒の製造場所を見られたら、酒のストックを見られたら。
即、製造のための道具をキャンプの奥のほうの倉庫に隠し、酒のストックは泣きながら廃棄。
一本のビン(750ml)を造るのに一時間かかるのに...苦労したのに...
また、その数ヶ月後今度はキャンプで火事。幸いボヤで終わったのですが、火事?ヤバイ、また警察が来る。 また同じく隠すことと廃棄。こんな苦労をしながらも酒の製造をやめなかったです。
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